30 「それぞれの高畠政治学」の巻頭言 一愛読者  - 2004/08/22 23:31 -
 高畠通敏氏の著作を愛読してきた者の一人として、高畠氏のご逝去を惜しみます。このWebサイトは、OBOGの方々以外の者にとっても、大変貴重なものと感じました。
 さて、「あしがくぼ通信」2004年5月の高畠氏の文章のなかに、
> 私は東大教授になりたくて東大助手になったわけでないというのは、
> 先日の「それぞれの高畠政治学」の巻頭言でも書いたことです
という特に興味深い記述があります。
 この「それぞれの高畠政治学」は、OBOGの方々の内輪の文集かと拝察しますが、その巻頭言は公にされてもよいものではないでしょうか。このWebサイトのどこかに掲示していただければ幸甚に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。


29 59回目の8月15日 大森美紀彦  - 2004/08/16 12:13 -
ここのところ毎年8月15日には国民文化会議(現在市民文化フォーラム)の集会か丸山眞男手帖の会の「復初の会」に行っていた。今年は行かなかった。自著がもうすこしで終りそうなのでその作業をするという「エゴ」のためである。夜になって集会に行って知っている人に会わなかったのを悔いちょっと寂しい気持ちになった。この日の意味を共に考える人が少なくなり、どちらかの集会に行けば年老いた(?)とは言え知っている顔に会えほっとできたのに…。「復初の会」はともかく、市民文化フォーラムの方は若い人がきたのだろうか。あとで参加した人に聞いてみたい。
家に一日いたが、夕方喫茶店でいくつかの新聞を読んだ。オリンピックにかき消されてしまったのは高校野球だけではなく「敗戦記念日」もそうだった。東京新聞の社説が一番まともだと思った。東京はまた折込み特集で「戦争遺跡」のマップを作っていた。日本全国で「戦争遺跡」に指定された文化財が広島の原爆ドームなど96件になっているという。四国の「お遍路」ではないが、こうした「戦争遺跡」をまわるツアーなどを旅行社が企画したらどうだろうか。学校の修学旅行のコースにしてもいい。
59年前に終った戦争を「あの戦争」と言ったのはたしか佐藤誠三郎だったろうか(誰か覚えていたら教えてください)。私は先日他の掲示板で「あの戦争」ではなく「あの侵略戦争」とよんだ。こちらの方が正確である。加藤何某が「ねじれ」ということばを流行らせて、「あの侵略戦争」の「戦争責任」が曖昧にしてまった。この間、神島二郎さんや家永三郎さんが他界し知識人も総崩れ、「新しい歴史教科書を作る会」のキャンペーンも効を奏したのか、ここのところ「あの侵略戦争」という歴史認識が急速に薄れてしまったような気がする。これは若い人たちだけではない、腹が出て保守化し年金のことなんかで頭がいっぱいのお父さんたちも同様である。
社説で言っていることが良くわからなかったのは毎日。見出しに「9条を抱えて常任理事国に」とあるが、本文ではそれほどはっきりと言っていないし、ミサイル防衛構想等米国追随に反対しているようにも見えない。毎日は藤原帰一さんの論説も載せている。この人の文章も良く読むのだが、いつも印象が残らないのはなぜであろうか。神島先生だったらフィリッピンの戦争体験から書き始めただろうななどと言っても始まらない。彼は1956年生まれ、私より4歳も若い。でも56年生まれでも平和日本であっても何らかの戦争体験があるのではないだろうか。私にとってはベトナム戦争。それも高畠先生が作った「ベ平連」や「声なき声の会」の運動を通してのベトナム戦争だ。つまり、同世代のアメリカの若者が遠いアジアの地で死ぬということの意味、その一方で自分は喫茶店でコーヒーを飲み議論している、家のそばのN無線ではナパーム弾を作っている等々の事実を「声なき声の会」の集会で知らされたのが自分にとっての切実な戦争体験だ。藤原さんの文章が心に響いてこないのは彼自身のそうした体験に根差す息遣いが感じられないからだろうか。
すでに「あの侵略戦争」を体験していない人口が1億人になろうとしている。しかし、「あの侵略戦争」の体験はなくとも、私のような戦争体験が各人各様にあるのではないだろうか。藤原さんのようにいきなり大所高所から世界政治を見るのではなく、ささやかでも各人が自分自身の戦争体験に根ざし「手作りの自前の反戦思想」を構築していくことーそれが今何よりも求められているのではないだろうか。それは高畠先生が歩道から車道に自らの足でデモへの第一歩を踏み出しそこから「市民の政治学」を構築した地平とも重なってくるはずである。


28 現代市民のヴィルチュについて 渡辺英樹  - 2004/08/12 01:58 -
立教法学53号(1999年)(高畠教授最終講義)
「政治の<原理>について」第9項「現代市民のヴィルチュについて」

昨年、私が平和研究を講義し終わったとき、ある学生さん(筆者)
が来て言いました。先生の講義はよく分かります。しかし、そういう
話を父にしたら、たちまち親子喧嘩になる。戦地に出た父はいまでも
日本は中国を侵略したのではない。白人帝国主義からの解放戦争という聖戦を遂行したのだ、という信念に凝り固まっています。犠牲になった中国の民衆の苦しみを説いても、戦争に犠牲はつきものだ。何を甘いことを言うかとたいへんです。先生、こういう父を説得する方法を教えてください。
いやあ、困りました。重い話です。このような人は、この学生のお父さんだけでなく日本中にいるわけで、しかも現在では、劇画やマスメディアにのって若い世代にも広がっている。私たちは困難な時代に入りつつあるのです。
問題を一般化していえば、これは、経験や価値観そして利害が対立する世代、階級、民族あるいは宗教の間に「対話」は成立するのかという問題でもあります。ー中略ー
人の意見は、たんに情報だけにもとづいて形成されているのではなく、その人のアイデンティティとも深くかかわっています。それを、
「論理的な説得」という形で「正面攻撃」すると、ますますかたくなになるだけという結果になりかねません。その人のアイデンティティを尊重しながら、意見の変更を迫るにはどうしたらいいのか。
−中略ー
私たちはまた、それに必要なヴィルチュやアートの鍛錬へと向かわなくてはなりません。これが、私の考える政治学の<原理>であり、エッセンスなのです。ー以上ー

私(筆者)が上記の質問をした際、高畠教授は、「な〜るほど。
重たいねえ。考えてきます。次回、お答えしましょう。」と、
慎重でした。
その次回とは、冬休みをはさんでの年明けの講義が終わった時点で
ありました。
私がぶつけた質問なんてもう覚えていないかな?
と思っていたのですが、6号館の4F法学部受付の奥の応接室にとおして
くださり、「対話を成立させることってむつかしいよねえ」、
「正面攻撃はいけないねえ」と、おっしゃられました。
先生ご自身も、とても悩んでおられたように感じられました。

以前(82年)、雑誌「諸君!」で、社会学者の辻村明氏が、
「朝日新聞の仮面、論壇時評の偏向と欺瞞をつく」というのを
書かれて、そのなかで当時論壇時評欄を担当していた高畠教授も
含めて、「左翼的知識人」「進歩的文化人」だと毒づきました。
私は、高畠教授に、「反論しましょう」と手紙を書きましたが、
3ヶ月待っても返事をくれなかったので、高畠研究室に電話を
かけたことがあります。
高畠教授は、「反論なんていたしません。言っても分かる人では
ありません。」と、「議論の不毛さ」を説いてくださいました。
私は「議論が不毛なのですか?」と質しましたが、のらりくらりと
煙に巻かれてしまいました。

99年の1月、最終講義ということで、立教大学へ行きました。
先生は「諸君!」をめぐっての電話でのやり取りについて触れた
ところ、とてもよく覚えておられ、「あはは」と笑って、
また煙に巻かれてしまいました。

しかし、その「あはは」は、先生の「政治学の原理・エッセンス」
だったのかもしれません。
「政治や宗教の話」は、意見がちがうと議論になり、それが必ず
しも「対話」として成立しないことを、先生はとても気にして
おられました。
「対話の成立のさせ方」は、現代市民のヴィルチュとして、
私も、非常に関心を持っている課題です。
今のところ、「正面攻撃されても、正面攻撃で反撃しない」練習
の日々であります。
先生、しかしこれは難題ですね。



27 やっと加瀬川山荘へ行けましたね 高畑友子  - 2004/08/11 01:27 -
先生、やっと行けましたね。3、4年ゼミの卒業間近のコンパでだったか、加瀬川さんが、美容師になってはさみを持って世界中を回って先生を超える学者になることと、温泉付の別荘を買って先生にきてもらうことが夢だと言ったとき、先生は嬉しそうに「ふ、ふ、ふ」と笑っていらっしゃいましたね。いよいよ別荘を買ったと言うと、「ほおー」とおっしゃって、それからは「加瀬川の別荘に行かなくちゃ」と何度もおっしゃいました。でも、なかなか機会がなくて2年前も計画したのに行かれませんでしたね。
先生は小さくなってしまったけれど、リビングの箪笥のうえから加瀬川さんが料理をしてくれたり、温泉のお風呂を入れてくれるのを嬉しそうに見ていました。ベランダからは野菜畑、遠くに町並み。あしがくぼにはちょっとかなわないけれど、なかなか良い所でしたね。あいにくのお天気で富士山は見えなかったけれど、今度また、行きましょうね。
ほんとうはもっと早く行きたかったけれど・・・。



26 追悼 高畠通敏(その1) 越智敏夫  - 2004/08/10 13:34 -
職業としての政治学者 追悼 高畠通敏

             新潟国際情報大学 助教授 越智敏夫

 昨年の十一月、立教大学で高畠通敏さんは「市民政治再考」と題した講演をおこなった。高畠ゼミOB・OG会が師の古希を記念して企画したものである。その講演をもとに出版された同名のブックレット(岩波書店)も読んではいたが、訃報を聞いて講演のビデオを見なおした。そこで今さらのように強く感じたのは高畠政治学の独自性である。
 時系列的にいえば高畠さんは京極純一、鶴見俊輔、久野収といった学問上の先達を持ち、在米研究中はドイッチェ、ダールなどから方法論を学んでいる。また神島二郎、藤田省三からの影響も強いだろう。現実政治の計量分析と戦時期日本の転向研究、さらには政治哲学までが一研究者のなかで歴史、文化、思想などを媒介にしつつ矛盾なく高度に統合されていること自体、特筆すべきことだ。しかしその独自性は学問上の系譜だけで説明すべきことではない。
 それは高畠さんの政治学と市民概念との特殊な関係にある。その「市民のための政治学」は、最近はやりの「市民のエンパワーメント」を目的としているものではない。それは市民の自律性をめぐって展開されており、その自律性は権力性の否定として考えられている。「自分の精神を動かすことによって他人の身体を動かそうとする」政治権力に、自律的市民は「自分の身体を動かすことによって他人の精神を動かす」という運動によって対抗する。
 したがって市民運動とはNGOが政府や地方自治体から「お墨付き」を得つつ、既成権力に取り込まれていくことではないし、政治権力の分布計算の上にキャスティング・ボートを形成することでもない。それはまた現政府を打倒し新たな政府を樹立するという権力政治からも遠い。
 たとえ石原都政が都民の大多数に支持されていたとしても、その状況を嘆くのではなく石原都政そのものを否定しうるような民衆のカルチュア(それは高畠さんの畏友、栗原彬さんの表現を借りれば「民衆理性」とも呼べるだろう)を日常のなかから作り上げる論理を提示することが政治学には求められている。その共同性を作り上げるための「文化革命」の構想が高畠政治学の中心にあった。


25 追悼 高畠通敏(その2) 越智敏夫  - 2004/08/10 13:32 -
 しかしこのような政治学はあらゆる状況において高度の政治的判断を研究者本人に求める。このため高畠さんの論考は単純な図式主義にはけっして陥いらなかったが、場合によっては自己韜晦とも呼べるような複雑な容貌を見せることもあった。
 たとえば昭和天皇死去の際に高畠さんが「朝日新聞」に書いたものをめぐって、私も本人とかなり真剣な議論をした(というよりは「あなたはそんな人だったんですか」的悪罵を一方的に投げかけてしまった)。私のような人間からの批判にけっして動じる人ではなかったが、その温厚な口調での反論以上に記憶に残っているのは、天皇制を論じる場合には言説の現実的帰結まで考えるべきだという高畠さんの「政治判断」だった。
 さらにこうした市民政治学は高畠さんを他の政治学者からも引き離した。たとえばその距離は、村山政権成立後、それまで左翼あるいは市民派を自称していた政治学者の多くが「抵抗するだけでは時代遅れであり、政策提言は研究者の義務である」といいつつ選挙制度改革などにおいて連立政権に協力しはじめたことへの激烈な批判としても表れていた。


24 追悼 高畠通敏(その3) 越智敏夫  - 2004/08/10 13:32 -
 しかし少数派としての孤立にこそ政治学者の存在意義があると言いつづけた高畠さんはみずからの政治学を市民運動と教育においても実践しつづけた。前者は「声なき声の会」「思想の科学」「ベ平連」「国民文化会議」といった運動体を事務当局者として長期にわたって支えたことに表れている。後者は立教大学法学部における政治学教師としての日常である。
 高畠さんにとって政治学の目的は「よき市民」をつくることだった。したがって国家官僚や専門研究者を輩出することは政治学教育の目的とはなりえない。大衆操作の科学的方法を考案したり、ジャルゴンまみれの政治学的知識を学生に得々と語ることなどは政治学本来の存在理由とは無縁なのである。ゼミの卒業生には各自がよき市民となるべく自分の場で独自の政治学を作り上げることを期待していた。自分のゼミから大学院進学者が出ないことが高畠さんの自慢のひとつだった。
 先述したビデオのなかで熱心にノートをとりながら講演を聞いている広い世代の元ゼミ生は日常の中でよき市民であることを問いつづけている人々である。その講演と同時に出版されたゼミOB・OG論文集『それぞれの高畠政治学』の巻頭論文において高畠さん本人も卒業生の市民社会での実践に熱く期待している。
 どんな場合でも底意のない行動を取り、誰の話でも熱心に聞いていた高畠さんの死は、その圧倒的な人間的魅力とともに、私たちから当代無二の知性と自由な精神を喪失させた。本人の教えを守らず専門研究者を志望した私はその意味で不肖の元ゼミ生である。しかし今回、この追悼文の依頼を受けたことは望外の栄誉だと感じている。
 でも先生、いくらなんでも早すぎます。


23 再アップします 越智敏夫  - 2004/08/10 13:31 -
いったん原稿の順にアップしたのですが、下から上へというのは読みにくいことに気づきました。愚か者です。投稿順は逆になりますが、上から下へ続くように再送します。申し訳ありませんでした。ご寛恕ください。


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19 拙文ですが 越智敏夫  - 2004/08/10 13:21 -
越智です。先日の「お別れの会」では、あまり役にも立たないのに手伝いをさせていただき本当にありがとうございました。皆さんもお疲れだったと思いますが、後日、出席されたうちの何人かの方から「すばらしい会だった」との連絡をいただきました。

当日は、僕の書いた追悼文もタッカーホールの壁に貼っていただきました。ありがとうございました。いくつかお問い合わせもありましたので、拙いものですがここにアップしておきます。読んでやってください。掲載紙は『図書新聞』2687号(2004年7月24日付)です。このアップロードに関して『図書新聞』編集部の許可は得てあります。

3回に分けてアップします。

http://www.nuis.ac.jp/~tochi/

18 昨夜先生の夢を見ました。 加瀬川 和夫  - 2004/08/10 08:46 -
 昨夜先生の夢を見た。田舎の公衆浴場…ちょうど、上田電鉄の終点にある別所温泉のような感じなのだが、そこはなんと混浴だった…とはいえ、入っているのは子供ばかりで、浮き輪とかシュノーケルなどつけて、どこぞのお子様用のプールみたい…当然裸で、入浴していたら、若い女性が、しっかりバスタオルで覆った状態で入ってきた。「おっ、こりゃいいねぇ」なんて思ったら、混浴だっていうのに、人の入浴している姿をジロジロ見て、迷惑そうな表情をする。夢の中でも、私の性格は変わらないようで、そのまま湯船に入っているのも悪い気がして、風呂屋をでた。で、出てからの行く先が、木造の古びた校舎の職員室。途中、赤い屋根をした、かつては牛舎だった大きな建物を牧場越しに見ながら、薄い霧に覆われた中、夏草に覆われそうな細い道を歩いていたら、前を先生が、一緒に山を歩きにでかけた時の服装で歩いている。「あ、先生だ」と思って、しばらく無言でそのまま後を歩いてゆくと、ふいに右に曲がって、まだ続いている大きな牛舎に向かっていった。その向かう先には、牛舎の壁には、扉はなく、空洞状の穴があいていて、屋内にもかかわらず、湖があった。とはいえ、その先生が歩いている小道の先には黄土色のレンガの壁があって…そうなるだろうな、という私の予想のとおり…先生はその壁の中に消えていった。消え入る瞬間、少し後光が差すような感じで、周囲は明るくなった。私は、「先生、来年また来て下さいね。」と声をかけた。
 今先生は、お別れ会に来た人たちのところを、回っているのかもしれませんね。



17 先生が来てくれました。 加瀬川 和夫  - 2004/08/08 16:53 -
先生の遺影を持って、高畑さんが、野崎さんや友人をつれて、別荘にやってきてくれました。まだ、先生が手術をなさる前の秋に、芦ガ久保からご自分で車を運転なさって、雁坂峠周辺の紅葉をながめながら、南箱根の私の山荘までお出でになる予定でしたが、天候が芳しくなかったことと、予想外に遠かったこととで、その日は断念することになったことがありましたから、実現するまでに二年以上かかってしまいましたね。写真という形ではあっても、これで場所が確認できたわけですから、山荘のお風呂をわかしたときなどには、是非また一風呂浴びにきてほしいと思います。
 ところで、最近私は、美容室のお客様から、おもしろい話を聞きました。近所にある魚屋さんの息子さんが、霊感の強い人で、その息子さんの話によると、魚屋さんお隣の駐車場に、ある男性の霊がいつも立っているのが見えるのだそうです。その霊は、魚屋さんの隣の隣にある酒屋さんご主人だそうで、あるときその霊に、どうして、ずっとそこに立っているのかを尋ねたのだそうです。すると、その霊は、自分は酒屋さんご主人であり、あとに残した妻のことが気になって、上の許可をもらって、遠くからもどってきた、と答えたのだそうです。「上の許可もらって」などということは、ますますもって眉唾ものの内容ですが、最近、そういう霊というようなあり方を信じつつある私には、とても興味深い話でした。
 



15 早すぎます、先生。 野崎節子  - 2004/07/09 23:50 -
先生がご自分の病状などをHPに乗せておられるのは知っていましたが、覗き趣味のようで、いままでHPをおとづれたことはありませんでした。今、一つ一つを読んでいます。もう、この口調も文体も耳にすること読むことがかなわなくなってしまったのですか?しばらくしたら回復すると思っていたのに。早すぎます。
先生は今年の年賀状で、「日本も、私も曲がり角を曲がったようです」とおっしゃいました。この曲がり角で、私たちは道案内を失ってしまいました。これからは、自分たちで、方向を見定め、道を選び取っていかなければならなくなったのですね。先生だったら進んだであろう方向を歩んでいきたいものです。いえ、歩んでまいります。そしていつか「やあー、よく来たね」とお会いしたときに声をかけていただけるように。


14 早すぎます、先生 野崎節子  - 2004/07/09 23:16 -
先生がご自分の病状をHPに載せておられるのは知っていましたが、言い訳ではありませんが覗き趣味のような気がして、いままで訪れませんでした。今あらためて一つ一つを読み直しています。もうこの口調、文体を身近に聞き読むことができなくなるなんてウソでしょ?と言いつつ。どんなにあがいても先生には追いつくことができなかった。追いかけていくのが精一杯でした。これからは本当に追いかけていくことができなくなったのですね。自分の力で、目で、手で、知性、感性すべてをかけて切り開いていかなければならないのですね。年賀状で先生は、「私も時代も、角を曲がったようです」とおっしゃいました。道案内を失った残された私たちは、この曲がり角で、道を誤ることなく先生ならば選んで歩かれたであろう方向を選び取っていきたいと思います。そして、いつか、また「やあ、やってきたね」と迎えてもらえるように。それまでしばらく先生さよなら。



13 高畠通敏先生 江川 栄一  - 2004/07/09 21:44 -
昨年の「古稀の会」であんなにお元気だった、先生のご逝去が未だに信じられない思いでいっぱいです。
思えば退職の会の頃だったか、高畠研究室で先生にお会いした時、私の顔を見るなり友人の事を気にかけられ、彼の奥様が病気だと話すと、アガリクス菌やプロポリスの話をされて、我が事のように心配いただきましたね。
その事を鮮明に覚えているがゆえに、まさかその彼女と同じ病気になられるなんて、なんと言う偶然かと言葉にもなりませんでした。
そして、実は私も3年前大腸にポリープが見つかり、内視鏡で4個切除したのですが、確かに下剤などの準備が大変なので、先延ばししたくなるのも当然かと思います。今年もつい2週間前に3個取ったばかりで、そういう意味ではこれまた偶然と言うには出来過ぎているような話です。
「古稀の会」の時の先生のお話にも、文集にも「まだ生きているうちに追悼文集を見てもらおうと言う云々」と先生は触れられていましたが、勿論私たちは到底そんなつもりもないのに、先生は何故そう感じられたのかと思うと、ご自分の体のことをすっかりお分かりだったのかなあ、と涙が出てきそうです。
先生に出会えたことでどれだけ政治そして社会を見る眼を養えたか、いくらお礼を言っても言い足りません。有難うございました。
先生は間違いなく私の生涯の師です。それはこれからもずっと変わりません。
安らかにお休みください。



12 残念です 横浜生  - 2004/07/08 23:19 -
新聞で、高畠先生の訃報を知りました。
非常に残念です。思い起こせば20数年前、偶然その著書を手にした日からの長いお付きあいでしたが...。
大きく変化しようとして行く時代の中にあって、「認識は頭で、行動は体で」をモットーにした運動の政治学が、今こそ試される時だと思います。
松明は我々が引継ぎますので、安らかお眠り下さい。



11 先生・・ SACHIYO U  - 2004/07/08 22:17 -
先生、高畠先生、本当に逝ってしまわれたのですか。
本当にもう、どこにもいらっしゃらないのですか。
昨年の11月にお目にかかったのが最後なのですか・・・。
朝刊の一報に触れて以来、ほろほろと涙が止まりません。
あれほどに、政治学へのアプローチを教えてくださったのに、
横着な教え子は、ろくな精進もせずに、怠惰な時間を過ごす
ばかりでした。悔やんでも悔やみきれません。
今はただ、先生の行かれた世界でのご冥福をお祈りする
ばかりです。 先生、本当にありがとうございました。



10 お悔やみ 佐藤 和佳子  - 2004/07/08 16:42 -
あまりにも突然の高畠先生の訃報に、ただただ衝撃と未だに信じられない悲しみと後悔の念で一杯でございます。
昨年の古希のお祝いにも失礼致したままでおり、ホームページで先生のご回復されたお姿に安堵致しておりました。
先生からお教え頂きましたことは、現在の自分の生き方の根底を支える支柱として今も息づいており、その感謝の気持ちをお伝えすることができず、本当に本当に残念でなりません。
これまでと同じように、日々心の中で先生のお教えを大切に致したく存じます。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。


9 お悔み 佐藤雅俊  - 2004/07/07 22:14 -
先生の訃報を知り,衝撃を受けるとともに心からご冥福をお祈り申し上げます。先生の教え








突然の先生の訃報を知り,衝撃を受けました。これまでご指導いただいた先生の教えを心に刻んで,今後生きていきたいと思っています。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。






8 ご回復をお祈りしています 明賀 雄二  - 2004/07/05 18:08 -
5月号のあしがくぼ通信を一読し、養老孟のいう「バカの壁」に潜り込んでしまいました。しかし「知りたくない事は見えない、聞こえない」と現実認識から逃避することは政治学をほんのわずかでも囓った人間のとるべき態度ではないと思い直しました。
立教で高畠先生の教えを受けられたことの幸運の大きさを年を経るごとに深く実感します。教育者として、市民政治学の構築者として、市民運動実践者として、ほとんどぶれのない歩みには尊敬を超え、驚きを禁じ得ません。先生は、時勢の波に漂流しがちな私にとって自分の位置を確認しフィードバックするための究極の星であります。
ご恩を頂くばかりで、まだ何のお返しもできていません。私のとんでもない早とちりであることを切望しながら、先生のご回復をひたすら祈っております、。


7 申し訳ありません 江口(旧姓 半田) 有紀  - 2004/07/02 13:03 -
昨夜、加瀬君より教えてもらうまで先生のご容態のこと、全く存じませんでした。のんきにもお会いしたいなど勝手なことを・・・、申し訳ありませんでした。ホームページを開く習慣を持ち合わせておりませんでしたが、これからは改めます。
 加瀬君の話を聞いて肝をつぶしました。
 申し上げたい事、山のようにございますが、ともかく今は出先からですので、またお便り申し上げます。  
  どうか、どうかお大事になさってくださいませ。


6 お見舞い 芝   博  - 2004/06/29 22:34 -
先生とは、卒業以来一度もお目にかかっておりません。
先生から教わったことも、ほとんど頭に残っておりません。
しかし、親切な昔の仲間のお蔭で、常に身近な存在として、認識させて頂いておりました。最近はホームページのお蔭で、お元気な姿を拝見することも出来ておりました。古希のお祝いの文集にも、拙文を載せていただけました。 先月の、あしがくぼ通信を拝読して、先生が懸命に病魔と戦っておられることに感銘を受けました。 僭越ですが、先生なら不可能を可能に出来るはずです。 ご回復を、心よりお祈り申し上げます。


5 私の決意 大森美紀彦  - 2004/06/28 22:20 -
高畠先生 ご無沙汰しています。古稀のお祝い以来、自著の『権藤成卿と大川周明』の編集作業にかかりきりになっていてご連絡をさしあげず失礼しました。5月末に先生の「あしがくぼ通信」を読みました。この欄で既にお書きになっている先輩の佐藤健人さんと同様、大きなショックを受けました。今はただただ先生のご回復を祈願するのみですが、自分なりに何が出来るだろうかと考え先生の不肖の弟子として、日々危険な方向へ進んでいる現在の日本の政治状況に小さな場所からでも発言していこうと思いました。故神島先生がお作りになった研究会の残党が最近立ち上げたホームページの掲示板に最近狂ったように文章を書いています。書こうという気持ちは先生のあしがくぼ通信を読んでから急にそして自然に湧き起こったものです。拙い文章で、もしかしたら先生のご病気が悪化してしまうかもしれませんが(?)、真剣に臨んでいます。これが私の先生のご健康祈願の「お百度参り」です。先生、どうか病気に負けないように頑張ってください。
→文章を載せている比較日本研究会のHPのアドレスは以下の通りです。実名は危険なため小木黙彦というペンネームで書いています。
http://www.geocities.jp/hikakunihon1/


4 高畠敏敏先生へ 佐藤 健人  - 2004/06/23 10:41 -
高畠敏敏先生へ

あしがくぼ通信、一読・再読・再々読しました。
「古希に集う会」でのお元気になられたお姿を拝見して、これならもう心配ない5年後・10年後にまたお会いできると喜んでいました。しかし、あしがくぼ通信を一読して現在の厳しそうな状況をおもい胸が締め付けられました。

『鶴見俊輔様』への文章を読ませていただきました
自己と家族、特に母親との関係をみずからの哲学の原点にして<自己を語り続けている>鶴見俊輔氏に対して、<自己を語らなかった>高畠先生の少年・青年時代の「歴史」を
はじめて知って驚いたのが実感です。
先生はお忘れかもしれませんが、私たちのコンパ(およそ20年前)などで「ご飯にソースをかけて食べるのが当時はごちそうだった。ところで今日はご飯がでるの?」と口癖のようにつぶやいていたのは先生の「歴史」体験だったのですね。

先生のご発言は直接には「戦争が遺したもの」で鶴見さんが語っていらっしゃる先生についてのくだりにあるとおもわれます。同様なことは「期待と回想」でも述べています。
私はさすがに先生が丸山さんの弟子であったという誤解はしませんが鶴見さんをとおして先生と丸山さんのエピソードを知りました。たしかに、あの対談を読んだ一般読者は高畠秀才論を世間的な侮蔑的な含意で理解するかもしれません。
(この対談集は小熊氏の突っ込みが鋭く随所に鶴見さんのお話に綻びもみえたり、女性問題に対するスタンス、吉本への鋭い本音批判や思想の科学のネーミングの由来などこれまでは窺い知れなかったことも発見できてとてもいいものですが、鶴見さんの発言は若干割引いたほうがよいでしょうか?それに、ここ数年来の鶴見氏の東大=1番病批判には疑問を感じてもおります。)
しかし、多少なりとも先生の身近で教えを受けた私はなぜ鶴見さんは高畠=秀才論を語りつづけているのかをちがう意味で理解しています。
私の勝手な想いを語ります
まずはじめに、失礼を承知で申し上げれば残り少ない人生の最後でこのような文章を書くことができる先生と鶴見さんのながく深い関係=ヤクザの仁義に感動しました。(しかし、義理と人情のヤクザの仁義が鶴見さんの到達点?とはとても嬉しいやら、やや悲しいやら複雑です)
先生の処女評論集の献辞は鶴見さんだったと記憶しております。
さて、なぜ鶴見さんは意識的に高畠=秀才論を語りつづけているか?それは、鶴見さんにとって先人として竹内好があり、後人として高畠通敏がいた、からです。
たぶん鶴見さんは竹内理論よりも彼の知識人としての姿勢=もがく、に鶴見さんが描く知識人のひとつの理想をみたのでしょう。他方、高畠先生の出現は後世恐るべし、と感じたのです。鶴見さんはみずからを悪人/落第生とパフォーマしても、自分の能力には揺るぎない自信があったにちがいありません。そこに、鶴見さんを凌駕する才能と論理展開、しかも、狂気というにはあまりにも理性的であり抜群の実務的能力を備えていた10歳年下の高畠青年の出現は大きな驚きだったのです。鶴見さんを擁護するわけではありませんが先生に敬意を表した高畠秀才論ではないでしょうか
先生には迷惑な誤読かもしれませんが私の勝手なおもいで何度でも書きますが、政治学者高畠先生の<権力を無化する>構想は丸山真男には思いも及ばぬことであり、鶴見さんのアナーキズムを超えるものです。
先生のライフワークである市民政治の実現にはまだまだ長い年月が必要ですが、先生が学内にとどまらず、さまざまな小さな市民集会での講演活動(私達もお世話になりありがとうございます)、一般市民として行動した「声なき声の会」やベ平連など、先生が生涯をかけておこなってきた運動の証左は大学を卒業しても還暦の会・古希の会と全国から集う多くのOB/OGに種が蒔かれています。「それぞれの高畠政治学」文集にはNPOに関わっている方が多いのに些か驚いています。

30年前に大学に入学して、偶然に先生のゼミを選択し教えをいただきほんものの知性=秀才に出会いカルチャーショックを受け、その後の私の人生を豊かにしていただいてほんとうにありがとうございます。
先生がお元気になられて、「民主と愛国」をOB/OGゼミで輪読することを切に希望しております。(ほんとうは「市民政治の再考」を輪読したいのですが自著は禁じられていますので)
きょうこの頃は気温の変化が激しく体調の維持が大変だとおもいますが、ただひたすらご健康を祈念するばかりです。

6月16日    佐藤 健人




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高畠先生へのメッセージ

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