巻頭言

                              高畠通敏


  大腸ガンの緊急手術を終え病院から出てきてこの本の計画を聞いたとき、これは実質的に私の追悼文集の先取りではないかと思った。私は、入院直前に、自分の死亡通知状を書きながら、ある日突然にそれを受け取るOB/OG諸君の顔を想像してそれなりの悦にひたっていたのだが、敵もさるもの、OB/OG諸君は、生前に私の追悼文集をつくって私に読ませるといういたずらを思いついたのかと私は考えたのである。これが作られれば、私の死後、あらためて追悼文集を編集するという労を省くことができる。そしてまた当の本人が読むと知りながら追悼文を書くというのは、OB/OG諸君にとっても楽しみであるに違いない。歯の浮くような美文をわざとらしく書くという方法もあれば、思い出にことよせて日頃いいにくかったことを書き、鬱憤ばらしをすることもできる。若いときの私の話を暴露して、私を苦笑させるという手もある。いずれにせよ、本人の反応がない死後の追悼文集よりは、書き甲斐があるというものだ。
 私が、こういう感想を漏らすと、この企画を立てたOB/OG諸君は、それは穿ちすぎだと否定したが、私の疑いを消し去るのに十分だったとはいえない。そして私は、実質的に自分の追悼文集であるものに、求められて巻頭言を書くということはどういうことかと思い悩んだのである。そして私が到達した結論は、死者が絶対になしえないことをする、すなわち諸君の追悼文への反論を書こうということだった。
 反論を書くといっても、まだ誰の文章も読んでいないのだから、個別の反論ではない。しかし、おそらくほとんどの諸君が文章を書く前提としているだろうことについて、私がその錯誤を衝くということはできる。それはいいかえれば、教師と学生という私と諸君との基本的な関係について、メスを入れるということだ。それは、私が教師という仮面の下で、諸君に見せなかった内幕の暴露、私の人生の裏面をあえて書くということなしには成り立ちえない。そうすることは、取りようによっては、生きながら追悼されるものが、追悼してくれる諸君に対する「あかんべえ」となるかも知れない。しかし、それこそが己の追悼文集に対して巻頭言を書くという行為として、もっともふさわしいことではないだろうか。

 この文集に寄稿している諸君は、教師と学生という関係で私につきあった人々だ。しかし、教師であるということは、私の人生にとって、どういう意味をもっていたのだろうか。
     人生は、与えられた役割の演技(role-playing)以上のものではありえないというよく知られた社会学理論にとって、もっとも適合する例は教師だろう。若者にとって、社会と人生に対する手ほどきをしてくれた教師のイメージは、生涯にわたって刷り込まれる。教師は、すでに子をもち孫をもつようになった立派な社会人から、いまだに先生と奉られるのである。しかし、このことほど教師にとってくすぐったいことはない。もう何も教えることがなくなった人間が、相手が無力無防備の若者だった時代に取り結んだ関係の上に、その後、一生の間、居座る。それは、その限りで親子の関係に似ているといえないこともない。しかし、親は、子どもが成人した後も、ときには無限の責任を負い無償の奉仕を行う。これに対して教師は、巣立っていった学生に対して、何の責任も負わずに、いつまでも先生とあがめられる。「教師と乞食は三日やったらやめられない」と揶揄され、「先生といわれるほどの馬鹿じゃなし」と陰口を叩かれる所以だろう。
 しかし、こういう見方には、一つだけ欠けている点がある。それは、教師という職業を天職と受け止め、理想の教師たろうと努力する人間がいるということだ。教師という職業的仮面が彼の内側に根を下ろし、やがて彼の人格(ペルソナ)そのものとなってゆく。若者たちは、教師の言うこと行うことのなかに将来への指針を求める。教師が何気なくいったことが、若者を触発し深い影響を及ぼす。そのことを自覚すれば、教師は、自分の言動に慎重にならざるをえない。その意味で、ある種の人々は、たまたま選んだ職業としての教師をつづけるなかで、自己形成してゆく。言い換えれば、教師という人間を作り上げるのは、彼を見る学生たちの熱い眼差しなのだ。孔子もソクラテスもイエス・キリストも、思想家や宗教家というより先に、教師として自己を形成した人だった。もっとも、私がそのように解釈するようになったのは、私自身が教師への道を歩みはじめてからだいぶ経ってのことだ。
 大学の教師は、まず、すぐれた学者でなければならない、学者として極めた自分の学問を学生に教えるのが教師としての役割であるというのは、専門教育の場としての現代の大学教師のあり方として、私が東大で助手として学者商売に入ったときに口を酸っぱくして教えられたことだ。しかし、それはどういうわけか私の気質に合わなかった。問題は、学者ということについての日本的な定義にあった。わが国では、伝統的に、学者とは<先進国>で創られた学説や研究に通暁し、それを要領よく<後進国>日本の学生や大衆に紹介し啓蒙する人を意味していた。その意味で、学者は、<先進国>での学問的流行に敏感でなくてはならず、競争相手の学者を蹴落とすには「その説はすでに<先進国>では旧い」というレッテルを貼ることで足りたのである。それは、中国をモデルとした古代以来、欧米諸国をモデルとした近代日本まで、日本の学者の基本的な姿勢だったとすることができよう。それは戦後の日本において、第二の開国、第三の開国を呼号した二〇世紀末にいたるまで繰り返されたのである。
 こういう学者が大学の教師でありえたのは、「先進諸国に追いつき追い越せ」が国をあげての課題となっていたからだったが、それがすなわち、教師が学生に、権威主義的に接することのできる根源でもあったのである。国家は民衆に対して啓蒙者の役割をにない、大学はそのエリートを育成する場であった。そこで学生は教師の教えることを懸命にノートしそれを拳拳服膺することによって官僚として出世し、社会内で指導者として振舞うことができる。竹内好さんがいう「優等生エリート」による近代化が、日本を支配し続けてきたのである。大学の教室で、学者・教師は、「囚人としての聴衆(キャプティブ・オーディエンス)」である学生に自由気ままに講義する。それが難解で聞き取りにくいものであっても、偉い先生に対して学生は崇め奉る姿勢を崩さなかったのである。
 私は、こういう学者・教師のあり方になじめなかった。一つには、それは、私がこういう日本社会で例外的な教師に出会い、感化されたからでもあった。私が二〇歳になって、自分の将来の仕事として学者になろうと思い定めたとき、私が師として選んだのは、京極純一と鶴見俊輔の二人だった。

 京極先生は二年の教養ゼミの先生であり、先生が東大教養学部の新米講師として最初に開いたゼミの学生だった。当時、私は三つの教養ゼミに入ったが、京極ゼミを選んだのは、時間割の関係で、まったくの偶然だったにすぎない。先生は、法学部学生の講義をもたされず、私は顔も知らない人だった。そのゼミで、先生は、新人だったので調子がわからなかったのだろう、夏休みの任意宿題で私が書いた浄土宗の成立とヨーロッパの宗教改革を比較し論じた作文に九五点という点数をつけ、激賞するメモをつけて返してきた。戦時中、富山に疎開し、浄土宗のお寺の日曜学校に通わされた私にとって、かつての一向一揆の舞台だった北陸が日本でもっとも深い保守ベルトになったことは、いつも心に引っかかっていた問題だった。さらにいえば、そういう風土に反抗して中野重治、石堂正倫とスクラムを組んで、金沢の四高から東大の新人会そして昭和初期の社会主義運動へと突入した私の父の問題とも、それは重なっていた。しかし、この問題が、土佐中村の田舎で育ち、軍隊に引っ張られるなかでキリスト教に入信された京極先生の琴線にふれる問題でもあったことは知る由もない。しかし、この激賞をもらって私の運命は決まった。豚もおだてられれば木に登るという。私は、京極先生に師事して政治学を専攻しようと決めたのである。教師にとって、若い学生は、叱るよりも褒めることが必要である。自分を棚にあげて、そのことに私が気づいたのは、はるか後のことだ。
 もっとも、京極先生は、政治学者になりたいと申し出た私に責任を感じて恐れをなしたのか、その後は一転して厳しかった。本郷に進み、助手になっても、先生は、私が京極先生の指導を仰いでいるということを周囲に漏らすことを禁じた。そこには東大教養学部という<僻地>に追いやられ、法学部学生に対する専門講義を長い間、もたせられなかった京極先生、そして彼が専攻する実証主義的な現代政治学に対する東大政治学の評価が反映していたように思う。
 教養学部で私が受けた政治学の講義は、他の先輩教授が担当していた。この講義での前期試験で、私は熱を込めて、読んだばかりのフロムの『自由からの逃走』を引用しながらファシズムを論じた。それは時間いっぱいを使って、答案用紙の表裏を埋め尽くす答案だった。これに対し先生はB評価の点数をつけてきた。そして講評で、良い答案とは、読む教師の心理も考えて、一行おきにきれいな字で要点を記したものであると説明した。それは東大流の要領主義の秀才を、そしてエリート官僚を育てる実地教育でもあった。それで私は以後、東大法学部でA評価をとるコツを理解したが、立教の教師になってから、試験でいつも学生に「力いっぱい書きなさい、終わりまでしっかり読むから」と指示したのは、この原体験があったからだ。もっとも、この先生は、後に私が学界に入り先生といっしょに仕事をするようになって、高畠の答案にB評価をつけたのは一生の不覚、と冗談交じりに弁解された。

 鶴見さんとは、二〇歳の誕生日の記念にと、年長の友人に思想の科学研究会のサークルに連れて行かれたのが始まりだった。この友人は、ノートを貸してほしいと近づいてきた八歳年上のひねた同級生で、後に知ったのだが、彼は大正末期の首相の孫でトーマス・マンの『十戒』の訳者として、すでに文筆家として立っていた人間だった。私は鶴見さんの誘いに応じて転向の研究会に入り、共同研究なるものに始めて参加した。助教授や大学院生たちに伍した、いちばん若いメンバーだった。そこは、私にとってまったく分からない、言葉も通じない世界だった。私は、毎日、そこで出会う分からない言葉や事件を書きとめて、家に帰って調べるという日が続いた。それは背伸びをして挑戦し、自分を鍛える場だった。こういう若者グループを組織して、学問的な仕事をつくりあげようという点で、鶴見さんは天才的な指導者だった。彼は、分かりやすく研究の世界的意義を説いて私たちを感奮興起させるとともに、忍耐強く無知な私の質問に答え教えた。私は彼と一緒にひと夏、上野の図書館に通って、毎日、戦前昭和の新聞を読んだ。それは一〇代半ばから日本を離れていた鶴見さんにとっても必要な知識だったかもしれない。しかし、私にとっては、原資料の山にふれて、その中からヒントを得るという最初の体験でもあった。そして、このとき、新聞を読むことを通じて皮膚感覚で得た戦前昭和の日常生活についての知識は、今日にまでいたる私の昭和日本論の基礎になっている。
R・P・ドーアさんと知り合って、私が京極先生と鶴見さんを師としていると告げた時、ドーアさんは「それは不可能な組み合わせだ」と笑ったが、私にとって二人の共通点ははっきりしていた。二人とも、伝統的な東大法学部流の学者という存在を嫌い、批判していたのである。京極先生は、日本の階層的な大学組織や学界から独立し、新しい知識の生産者、世界で評価される研究者として立つことを私に鼓舞された。いつも腰に包丁一本たずさえて、自分の腕を頼りに渡り歩く料理人の心意気に学べと私を諭された。鶴見さんは東大流の学問から離れ、それに対抗する民間の学問、日本の現実に根ざした学問の構築を私に説いた。しかし、私が大学四年の夏、思想の科学研究会の事務局を卒業後の生活拠点として研究者への道を歩みたいと告げたとき、彼は慌てた。研究会には、そんな財政的な余裕はなかったからである。やむなく私は東大助手を志願し、そのためにH・D・ラスウェルについての論文を書いて就職した。東大助手は、その当時、生活を保障されながら学者・研究者への道を歩めるほとんど唯一のポストだった。それは私にとって単なる就職にすぎなかったのだが、客観的な事情は違っていた。東大法学部は、戦前以来の特権的な伝統を守って、大学院生よりも助手を優遇し、限られた数の助手の中から、法学部教授の後継者を選抜するというシステムを維持していたのである。私が東大助手になったということを知った鶴見さんが「お前は私たちを裏切る気か」と、語調荒く私につめよられたのは、そういう事情をふまえてのことだ。当時、鶴見さんは東工大助教授だった。外部からは、東大助手と東工大助教授と、そんなに違いはないように思えるだろうが、鶴見さんにとって、東大法学部助手は、東大法学部教授すなわち日本の伝統的な学界組織の中枢へと直結するポストとして映じていたのだろう。私は、研究者として自立する予備期間としての三年間だけの就職で、法学部教授になる気はないと釈明して許してもらったのだが、それは私の心情でもあった。

 以上が、私が立教で研究者そして教師としての職業生活を始める背景にあった物語である。東大の主任教授は、助手を終えた私を学習院に配属することを決めていたのだが、私はそれを蹴って、京極先生の勧めに従い、設立されたばかりの立教法学部に就職することを内諾した。だがそれは、東大の伝統では許されないことだった。私は、そのためのお詫びとして、二年間、学習院で非常勤講師を務めて私に予定されていた講義をこなし、その後やっと立教に就職したのである。
 しかし立教法学部は、その設立の事情から、東大第二法学部と俗称され、東大は法学部教授陣予備軍の一時的プールと見なして、大量の助手出身者を立教に送り込んだのである。その後の事情は、法学部のOB/OG諸氏は熟知していることだろう。ただ、新しい学部というだけでなく、東大に対抗する新しい政治学の場をつくるという意気に燃えていた尾形典男教授を先頭とする政治学の教員たちは、東大からの帰還命令には応じないと結束して、立教政治学の建設にまい進したのである。立教政治学研究会が、東大の研究会に対抗するインターカレッジの研究会としてつくられ、京極先生をはじめとして橋川文三明大教授など多くの他大学の政治研究者とともに精力的な研究会活動を展開したのもそのひとつである。そのなかで、佐藤誠三郎助教授が東大の帰還要請に応じて転出したいと言い出したときのトラブルは知る人ぞ知る。彼は、東大に帰る理由として、立教で講義してもそれは何の影響も生むことなしに中空に消えてしまうが、東大で教えれば、それは日本国家の中枢である官僚たちに影響を与え、また自分の説は自動的に学界の通説になると言い放った。それは東大教授のポストをめざす学者たちの基本的な心情だといえよう。
 さて、立教で研究者・教師生活を始めた私の心情はどういうものだったのか。ふりかえって見れば、それは大きく四つの時期にわけることができる。
第一の時期は、就職した一九六一年から六九年の大学闘争にいたるまでだ。この時代、私は東大を超える新しい政治学の教育をすることに全力を傾けた。第二の時期は、大学闘争とその後の立教法学部の再編成の時期だ。再編成の区切りとして七九年の社会人学生制度の創設がある。その中間に『政治学への道案内』の出版が入る。学生諸君にとっては、『道案内』という教科書の出現は、ひとつの区切りになるかもしれない。しかし、実情を明かせば、それは偶然の産物だった。『道案内』を出版することで私の政治学教育が変わったということはない。三番目の時期は、八〇年代以降、尾形・神島という二人の立教政治学のボスの引退の後を受けて、私が企画の中心になって法学部の三学科体制への再編成を推進した時期である。その頂点に、政治学科の設立と大学院の政治学研究科の開設があった。そこで、私は、東大とは違う日本・アジア研究の拠点であると同時に市民政治学の拠点としての立教政治学を構築するという夢をかけたのである。第四の時期は、九〇年代、私が実質的に大学の中での責任ある地位から退いて以後である。私は、ふたたび一年の基礎文献講読ゼミを引き受け、学部と大学院での演習に精力をかたむけた。
 同時にまた、この四つの時期は、私と学生諸君との関係のあり方の違いをも反映している。第一の時期を通じて、私はいわば学生諸君の兄貴分の立場だった。そこでの私の役割は、学生の悩みを聞き、励ます立場だった。第二の時期で私は学生の叔父貴の立場だった。学生と親父たちがつくる社会との中間に立って、社会には改革を提示し学生には人間的な成熟を説くのが私の役割だった。第三の時期で、私は学生の親父の立場に立った。父親の年齢に達した私の地位を利用して、私は学生たちの就職相談に応じ、また学部長として大学の改革や国際会議の主催などを引き受けた。第四の時期、学生の父親よりも年上の年齢に達した私は、物分りのよい相談相手に徹していたといえるだろう。
このそれぞれの時期について、学生諸君には分かりにくいはずの教師職業の内幕のさわりをここで披露したい。
 東大の政治学は、私の主任教授だった堀豊彦教授も専門はヨーロッパ中世の政治理論であり、講義は二〇世紀はじめの多元主義理論で終わっていた。その後を継いだ岡義達教授は、岩波新書『政治』が唯一の著書という変わった先生だが、貴族主義的な観照的政治理論で政治を分析する方法を得意としていた。それに対し、新米教師としての私は、アメリカの行動主義的な政治学を基盤に、政治の実証的な分析の方法と成果を学生諸君に講義することに熱情を傾けた。東大を超える政治学の研究と教育の場として立教法学部を建設する、それは、東大には戻らないという鶴見さんへの公約をふまえた私にとって尾形先生や神島先生と共闘するための基本的な立場であり、また、東大や早稲田・慶応の入試に落ちてやむなく立教にきた学生たちへの励ましでもあった。立教では、東大を超える実力を諸君につけさせる。学歴ではなく実力を磨いて世界を渡れ、私はそう学生に語りかけたい気持ちでいっぱいだったのである。

 しかし、教師と学生という関係についていえば、それはもうひとつの権威主義であったという他ない。新米教師の私が、硬い直訳的な用語を使いながら棒読み的な講義をするのについてこられない学生は、不出来な学生として切り捨てるというのが、法学部そして私の姿勢だった。尾形先生が「洗濯屋の小僧」を連発しながら学生を叱咤激励されたのと基本的に同じ気持ちだった。しかしできる学生には、教授陣は協力して、東大の学生を押しのけて日本の新しいエリートに押し上げる。それが新学部としての立教法学部の基本的な姿勢でもあった。そのなかで、尾形先生は、イギリス系の大学で一般的だった教育助手をつかった新入生教育、すなわち基礎文献ゼミナールの開設に努力されたのである。
 それは、立教法学部で、東大に対抗するエリート学生を育てる方法として考えられたのだが、しかしまた立教法学部での教師と学生という関係を変えてゆく第一歩ともなった。ゼミが終わったらサヨウナラという東大の冷たい権威主義的ゼミと違って、コンパと合宿ではじまる立教の基礎文献ゼミは、やがて一生持続する教師と学生の共同体的な関係を生み出してゆく出発点となったのである。それは東大と比してのみでなく、立教の他の学部と比較してもユニークな存在だった。八〇年代以後ほとんどすべての学生が参加し、一クラス三〇人以上に膨れ上がったいまの基礎文献ゼミについて同じことがいえるかどうか私には自信がないが、しかし、六〇年代後半から七〇年代にかけての基礎文献ゼミが、新しく出発した立教法学部の心意気を凝縮した制度であったことは間違いない。
 六〇年代、この基礎文献で私が教えようとしたことは、やはりエリート教育の一環をなすものだった。S・I・ハヤカワの意味論を出発点として伝統的な観念論的学問から脱却する思考の方法を教えたり、新しい政治学の論文を読み解く仕方を精力的に学生に教えようとした。やがて私の基礎文献から専門演習へというコースは、立教法学部のエリートコースという評判をかちとり、この時代の学生から、司法試験合格者や日銀、朝日、NHK というエリート企業の合格者が輩出するようになった。
 しかし、この時代、私は、半分仮面をかぶって学生諸君に接していたという他ない。私は他面では、六〇年安保以来、声なき声の会の事務局長であり、また六一年秋以来は、思想の科学研究会の事務局長として、多忙を極めていたのである。とりわけ「天皇制特集号」事件をきっかけに思想の科学社を企画、設立して以後、私は「思想の科学社営業部長」の名刺をもって取次店や書店を毎日のように回っていた。大学へ出るよりも、思想の科学社へ出る方が多かった。市民運動の方も、六五年にはべ平連の呼びかけ人として多忙を極めていた。しかし、こういう活動について、私は学生諸君に語ることはいっさいしなかった。それは私の私的な活動であって、大学教師としての活動とは、ウェーバー的にいえば、峻別されるべきものだった。現代政治学の研究者として論文を書く際にも、それは関係させてはいけないものだった。六五年から六七年にかけてのアメリカ留学の期間にも、アメリカでの反ベトナム戦争の集会などに参加する一方で、私ははじめてふれた大型コンピュータを使った計量政治学の実地訓練やニューヘブンの政治を実証分析したR・ダールのゼミ、また国際政治をはじめて計量分析したK・ドイッチとの共同研究に熱中していた。日本に帰って、私は立教を場として、こういう政治学の新展開を研究し教える仕事を夢見ていたのである。
 それを打ち砕いたのが、六九年にはじまった学生闘争だった。学生たちの主張は、まさに市民運動やべ平連運動そして思想の科学の活動で、私が主張してきたものと重なっていた。そして法学部の闘争学生の主力は、私のゼミの学生だった。立教闘争は、その意味で私にとっての正念場でもあったのである。
 立教闘争と私について、私はいまだ公に語ったことはない。その全体について語るには、このスペースは小さすぎる。一つだけいうとしたら、私は、立教が他の大学のように機動隊を導入して学生を弾圧逮捕するなら、即時、大学を辞職するという決心を固めていたということだ。その代わりに、大学が機動隊を導入しないよう、できることは何でもやろうと考え、動いた。
 こういう決意の一つの背景は、六九年の春、親しい兄をガンで失ったことだった。兄は司法試験合格後、法務省のエリート官僚としての道を歩んでいた。兄の同僚たちの多くは、その後、高等裁判所の所長や最高裁判事になっている。兄の周辺では、べ平連の活動で一躍ジャーナリズムに躍り出た私のことが話題になることもあったという。しかし兄は、自分はやがて官をやめて弁護士になるつもりだから、遠慮なく活動したらいい、と私を励ました。その兄を失って以後、私は、若年でガンになったものの兄弟が同じようにガンに襲われる確率は五〇パーセントを超えるという統計を知った。それ以後、私は思い切りが良くなった。私に残された時間は短い。もっと思いのまま活動して死のう。その後、私はガンに襲われるまで三〇年以上の時間があったのだから、恵まれていたという以外にない。
 七〇年以後、私はエリート的学問と市民運動との二重生活をやめた。私は、機動隊を導入して旧に復した東大との絶縁を公にし、東大の研究会への参加をやめる一方、そういう東大に追随した岩波書店への協力もやめた。関係を旧に復したのは、八〇年代半ばになってからである。他方、私は自分が政治学において第一に追求するのは、市民政治学であるという旗印を掲げた。計量政治学は、私の副業になった。市民政治学などというのは、公認された学問分野としてどこにも存在していなかった時代である。「日常の思想」や「職業としての政治学者」などの論文は、そういう私にとっての宣言的な文章だった。教育においても、私は、伝統的なアカデミズム批判を学生に対して鮮明にし、基礎文献講読での題材も、専門技能よりは思想的な基礎を築くのに役立つ題材を選ぶようにした。私が、仏陀や孔子そしてマタイ伝などを基礎文献ゼミで読むことに対して抗議するかつての闘争学生たちもいた。私が反動化したというのである。しかし、私は、学生が自身の思想的立場を確立するために当然読むべき文献を、若い学生諸君とともに読もうとしたに過ぎない。
 『政治学への道案内』は、そういう私の気分のなかで編集されたものである。それは、本来、学生のために書かれたものでなく、一般読者のために、私の主張や批判を交えて書いたさまざまな文章を、私の市民運動での友人であった川村君がまとめて、教科書スタイルにまとめあげたものに過ぎない。それが東大教養学部の教科書になり、朝日新聞の書評に取り上げられ、オックスフォード大学日本研究科の参考文献に指定されたというのは、時代の変化というべきだろう。私が尾形先生の後をうけて司法試験の委員を引き受けていた間は、受験者の必読文献になり、政治学教科書としてはベストセラーとなった。あしがくぼの棲家は、その印税で建てることができた。
 しかし、こういうことのすべては、私にとって予想外のことだった。七〇年代の私は、立教の大学闘争で学生に公約したことを守るべく、法学部改革に懸命だった。私が教授会で実現に努力した自主講座、カリキュラム改革、社会人入試は、私にとってすべて学生への公約を果たすという意味をもっていた。社会人入試が文部省に歓迎されて、大学がそれで補助金を稼ぐようになるなどとは、予想もしないことだった。

 この調子で書き続ければ果てしがないので、このへんでやめることにしたい。しかし、八〇年代に入って、東大に対抗するもうひとつの政治学の本拠として立教がアメリカで認知され、ハーバードに対抗しているシカゴ大学の日本研究科が立教との国際シンポジウムを開いたこと、河合塾が政治学会会員のアンケートをもとに、日本の政治学科をランクづけし、いまだ政治学科を独立させていなかった立教を、東大、慶応、神戸につぐ4位にランクし、市民政治学の分野ではトップにランクしたことなど、私がそのために努力してきたことながら、いずれも意想外のうれしいできごとだったことを、記しておきたい。
 私が、立教で最後に努力したことは、政治学科を独立させ、それに大学院を付設することだった。それは尾形、神島という二大巨頭の対立によって、お二人が立教から退かれるまで実現することなく、私の手に委ねられる結果になった。
 すでに文章は巻頭言の範囲を大幅に超えている。こういうことの経緯については、機会があったら、あらためて語ることにしたい。

                 


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