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「あしがくぼ通信」2004年5月

  あしがくぼ通信(2004年4月)

あしがくぼ通信五月を、送ります。病状報告は書きません。もし、あしがくぼ通信6月が送れたら、死神が今月は忙しかったのだと理解してください。(いつまでも忙しいといいんですがね。)今月は二つの私信から成り立っています。病床でまだ文章が書けるということを自分に納得させるための手すさびでもあります。突然、私信を公開された人は面食らうでしょうが、著作権は私にあるのだからと苦笑して御寛容下さい。

李 恢成さま
 桜井の叔父のことを、自伝の中でお書きくださるとのこと、ありがとうございます。叔父がどういう人間だったのか。私は、日本近代史を背景に私なりの理解をもっていますので、いくらか長文になりますが、書いてみました。お目を通して頂ければ幸いです。

 明治維新以後、権力を掌握した薩長土肥を中心とする新たな官と、東北・信越・関東の旧幕地域の対立は、明治時代の終わりまで続きました。彼らは、自由民権運動を組織して藩閥政府に対抗、藩閥政府は伊藤博文が政友会の組織化という形で民権運動の体制内化に努力するとともに、近代国家経営の専門教育のエリートを立身出世主義という形で官僚層に吸収、旧幕地域での人材を下から囲い込むべく努力しました。しかし、旧幕地域の秀才たちの多くは、官界に向かわず、医学、司法、教育、軍、ジャーナリズムの世界に向かいました。そこは、藩閥政府に対抗する社会的な拠点でもあったのです。このようにして、社会が多元化した大正デモクラシーの時代が生まれました。しかし、それはまた都市化と工業化のなかで、新たな社会問題を抱えこんだ時代でもありました。そして社会主義運動への参加者は、また圧倒的に旧幕地域が多かったのです。彼らにとって、社会主義は、明治政府に吸収されなかった自由民権運動の形を変えた継続でもありました。
 さて、札幌の桜井(そして私の母の)家は、父方の一関(東北)の笠原家と母方の松代(信州)の真田家の伝統を受け継いだ一家です。両者とも明治藩閥政府に容れられなかった旧幕地域です。
 笠原家は、古くからの一関の藩医で代々江戸の昌平校(明治以降のいわば東大)に子弟を送る家柄でした。しかし、明治維新に再会した当主は、仲間が新政府への立身出世のコースに乗り換えてゆくのに反対して帰郷、東北の疲弊した村民を救う一介の村医になり、明治政府が近代化を強行するために全国の村々に学校税を課し、そのために各地で騒乱が生まれたとき、私財を投げ打って小学校を建設、村を救いました。一関の狐善寺には、その彼を讃える顕彰碑がいまだに立っています。その子どもの一人が宇都宮の医者桜井家に養子に貰われ、典叔父の父となったわけです。
 真田藩は学問好きの地域で、幕末、佐久間象山を生んだように、近代化を取り入れて藩政改革を実行するのに積極的でした。その頃、藩政を切り回していた横田家の当主数馬は、信濃川を拡げて、長野と新潟を大型船で結び、善光寺平(今の長野市)の地域の発展を計画しましたが、幕府はそれをとがめ、彼を切腹に追い込みました。彼の妻亀代子は父の無念を子どもたちに語り伝え、子どもの奮起を促し、教育に当たったと伝えられています。したがって、横田家を中心とする松代の子弟には、一方では、幕藩旧体制への強い批判と同時に、佐久間象山や横田数馬らの幕府内開国近代主義者たちを、尊王攘夷という復古主義を掲げて切り捨て、彼らを優遇しようとしなかった藩閥政府への屈折した感情が流れていたといえるでしょう。数馬の長女が、分家真田家に嫁ぎ、信濃教育会のパンフに今でも読まれている「我が母の躾」をかきました。その娘、長が宇都宮の医師桜井家に嫁ぎ、典叔父の(したがって私の母の)母となった次第です。亀代子は、長男秀雄を判事に、次男(小松謙次郎)を軍人に育てます。その頃、明治政府が国策としてつくった富岡の製糸場では、「フランス人が娘の生血を(赤ワイン)を毎晩飲む」という噂が立って働き手がなくなり、政府は、全国の官吏や旧藩主に命じて、娘を働きに出すように命じますが、それに応じて富岡に赴いた亀代子の娘英は、その体験を「富岡日記」に書き、今でも、一級の資料として利用されています。そこで彼女は、藩閥の娘たちに対抗し、孤立しながら、横田家の名誉と誇りにかけて新技術を学び取り、信州を新しい絹織物の産地に発展させる礎を築きます。この物語を、中野重治は、ヨーロッパと違う形での近代的な個人の誕生の例として描き、作田啓一は、ベネディクト流の「恥と罪」というヨーロッパ優位の近代化論ではなく、家の名誉という「内面化された恥」意識が日本型の良心の形成を生んだという仮説を作りました。横田英は、やがて旧藩主のお声がかりで、佐久間象山の甥の和田盛治に嫁ぎます。和田は、古川財閥に勤めて足尾銅山の工場長になり、田中正造と対決しますが、田中は、唯一人間味のあった工場長だったと評価しています。ちなみに、分家真田家に残った娘、志んは、六十を過ぎてから、松代藩に伝わる古流八橋流の琴を復活する仕事に乗り出し、長野県の指定人間文化財になり八十を過ぎて、国立劇場の舞台に立ちました。この物語は、鶴見俊輔が「人が生きる」の中で記録しています。
 あなたが言われる親子二代にわたって、最高裁(大審院)の院長を務めた横田秀雄の物語は、したがって決して単純なエリート一家の物語ではありません。秀雄は大正デモクラシーの中での大審院長として、「夫にも貞操を守る義務あり」と判決して、明治時代の妾公認の社会に終止符を打たせました。裁判所を退いてから、明治大学の総長を長く務め、昭和のはじめ、日米学生会議を組織して明治大学の学生から衆議院選挙に打って出た三木武夫の後援会長になり、彼が非翼賛議員として東条内閣に抵抗するのを支援し続けたのです。  典叔父についていえば、ここで私の父がからんできます。私の父は、富山の保守ベルト地帯の貧乏人で、中学にもゆけす、銀行のボーイをしながら、人より七年遅れて大正十一年、ようやく金沢の四高に入学した男ですが、そこで知り合った中野重治、石堂清倫らとともに、東大にはいるや直ちにすでに社会主義化した新人会の運動にのめりこみ、大学を出て弁護士になるや、大山郁夫の労農党の幹部となり、新潟の小作争議の顧問弁護士などをしながら、戦前の昭和時代、すなわち私の子ども時代を、貧乏な左翼弁護士として過ごしました。こういう運動の過程で、同じように社会主義運動に接近してきた、笠原家、桜井家の若者たちと知り合うようになり、やがてその縁で私の父と母が結ばれるようになったという次第です。こういう貧乏学生だった父を経済的に支援したのは、アイヌ解放の父として知られているドクトル・マンローと結婚し、その娘を抱えていた日本で最初の公立女学校の女性教師、高畠得子でした。父は、この同姓の得子の養子になって、四高以後の学費を貢いでもらっていたのです。これについては面白い話がたくさんありますが、やめましょう。
 さて、昭和前期の弾圧のなかで壊滅した左翼運動の活動家の多くは、生き延びるために植民地の満洲に逃げ込みました。桜井一家も同じでした。そこで典叔父が、戦時中、戦後をどのように生きたのかは、あなたが知っておられる通りです。
 戦後、あなたが垣間見られた、私の東大助手時代は、実は、李さんが思われたような坊ちゃん秀才の成功物語ではありません。私が東大に入ったのは、五人の子どもを抱えた貧乏弁護士だった私の父が、東大を一度だけ受験させてやる、それに失敗したら高校卒で就職せよ宣言したからです。しかも、学部は法学部に限られていました。息子といっしょに合同法律事務所を開くというのが、自前の事務所も持てずに苦闘していた父の夢でした。私が学者として大学教授になりたいと父に反抗したとき、父は、大学教授といっても宮仕えするサラリーマンではないか。我が家の伝統は、宮仕えしない自由人として生きることだと怒りました。兄は、この父の圧力に負けて、就職が決まっていたマスコミを辞めて司法試験を七年間受け、合格して十年も働かずに癌で死にました。私は、学者になりながらも、東大教授というエリートコースを自ら拒否し、いやはみ出てといった方がいいでしょう、市民運動の組織者としてまた市民政治学の構築者としての道を歩み続けてきたのは、やはり、父、母から流れる家の伝統を体の中で深く感じているからでしょう。
 当時の私は、表向きは、東大教授へのエリートコースにのりながら、遊び友達と交友するという形で六〇年安保の反体制運動にかかわった若者たちと画策し、他方では父をなだめすかしながら、家出の計画を練っていたのです。私の周りにいた映画の助監督たちは、黒澤明にあこがれて映画界に入ったのですが、組合に関わったりして誰一人成功せず、早めに切り上げて郷里の由布院温泉(九州)を映画祭の町に仕立てた旅館の息子だけが、別な形で自分の人生を築きました。
 その頃の私の周辺には、朝鮮・韓国の問題はありませんでした。しかし、今では、多くの知人や弟子、学生を、在日や戦後渡来の韓国の人たちのなかにもち、私の息子は韓国専門の銀行マンになって韓国のお嬢さんと結婚し、混血の娘はおじいちゃんと私にかけよってきます。暗い殖民地や差別の時代を飛び越えて、時代は、飛鳥・天平の自由交流の時代にもどったかのような錯覚さえあります。
 長く書きました。実は、私はいま病床にあり、今日は気分がよく他にすることがなかったので、つい面白がって書いたという次第です。最高裁長官を二代続けて出したエリートの家系の末端に連なる典叔父が、北大農学部出でありながら任官を拒否して兵として召集され、復員後は、北海道、東北の農事試験場で、寒地の農民のための品種改良に一生をささげたその背景の参考になれば幸いです。典叔父は、私と気が合う好きな叔父でした。彼のことを書いて下さって感謝しています。

  二〇〇四年四月二十五日

                                     高畠通敏



鶴見俊輔様

 四月、京都でお花見がてらお会いしたときに、雑談的にお話したいと思っていたことがいくつかありました。いま、一日のうち、薬で熱を下げている断片的な時間のなかで、片付けなければならないことを処理していますが、その一つに、鶴見さんにはっきりいっておかないと、鶴見さんが書いたりしゃべったりするなかで、私についての定説になりかねないとおそれていることがいくつかあって、この際、断片的にでもお手紙の形で書いておこうと思い立ちました。一方的なお手紙で、ご返事を頂いたりという余裕のないのが残念ですが、人生とはこういうものでしょう。
 第一に、私は、丸山真男先生の弟子ではありません。大学三年のとき、中野療養所で療養中の先生を訪ねて弟子入りを志願したのですが、日本政治思想史を専攻する学生以外は受け入れられないと、にべもなく断られました。私は、臆面もなく、政治理論と現実の政治分析を専攻したいと言ったのですから、当然だったのでしょう。そういう学生は、堀豊彦先生が指導することになっていると丸山先生はいわれたのですが、どういうお気持ちだったのでしょうか。ヨーロッパ中世の政治学や20年代イギリスの多元的国家論を専攻された堀先生が、戦後急速に発展したアメリカの政治学や新しい政治分析の手法について、まったく指導能力を欠いているというのは学生の間にも知れ渡っていた常識でした。当時の東大政治学の実力者だった岡義武教授は、南原先生が台北大学教授の職を失った弟弟子を救うための情実人事であると批判し、堀教授の採用した助手は、教授から指導らしい指導を受けていないので東大に残さないと公言していたことも、学生の間にまで知れわたった事実でした。(文化勲章まで受けた岡教授がどのように権威主義的な、また、いい加減な研究上の指導者だったかについては、最近、福島新吾氏が専修大学の紀要に思い出を書いています。)ともあれ、私は、堀先生によって救われて学者への道に入れたのです。堀先生は、自分には新しい政治学について指導能力はないし、私の助手になれば東大には残れないだろうが、勉強したいという若い人の道を閉ざすことはできないと、毎年、自分の権限を行使して、一人ずつ助手を採用しました。そしてその助手たちの就職の世話を懸命にされ続けたのです。堀先生が、私の助手採用論文「ハロルド・ラスウエルの政治学 ―政治への精神病理学的アプローチ─」を教授会で懸命に説明された様子を、後に斉藤真先生は面白おかしく私に伝えましたが、この一点で、私は堀先生に頭が上がりません。(そしてラスウエルは、論文を書きあぐねていた私に、鶴見さんが示唆してくれたものです。)
 そして私は、この堀先生を<裏切り>ました。堀先生は、私の助手の任期が切れる59年の4月から、学習院大学の専任講師になるよう取り計らって下さったのですが、私はそれ以前に、京極先生の口利きで、新設の立教大学法学部にゆくことを内諾していたのです。しかし、立教のボスだった尾形教授と堀先生は、同じ南原門下でありながら犬猿の仲でした。どのように切り出すか苦慮している最中に、堀先生は、お前の就職を決めてきたと、機嫌よく私に伝えてきたのです。本人の意向を無視してボス同士の話し合いで就職先を決めるなんて、と今なら誰もが考えるでしょうが、それが当時の慣行でした。そこで私は決意しました。堀先生へのお詫びに、二年間、立教に就職しない、その間、学習院の授業計画に穴を開けないよう学習院の非常勤講師を務めると。
 ですから、丸山先生が、私が転向研究のために助手論文を書かないと鶴見さんに苦情をいわれたというのは、単純な話ではなかったのです。私は、立教の助教授採用に間に合うよう、転向下巻の執筆予定に初めから参加せず、きちんと助手論文を書きました。と同時に、鶴見さんが、私が東大教授への道を捨てて大河内批判を書いたというのも、買いかぶりです。だいたい、私は東大教授になりたくて東大助手をなったわけでないというのは、先日の「それぞれの高畠政治学」の巻頭言でも書いたことですし、何よりも思想の科学の書記に雇ってと鶴見さんに迫って、鶴見さんを慌てさせたことをすっかり忘れておいでのようです。
 問題は、丸山先生がなぜそういう役回りをしたかということです。先にも書きましたように、私は、丸山学派の一員に加えてもらえませんでした。ということは、丸山先生を囲む研究会などにも、参加させてもらえませんでした。私は、丸山先生と個人的に談笑したという記憶は、まったくありません。ただ一度だけ、丸山先生がまだ政治学の学生向けの解説なんていうことを引き受けていた時代、情報の供給源として「経済セミナー」の対談者として、お相手をしたことがあるだけです。藤田さんのような<狂気>を秘めた人よりも私のような<秀才>と話しをしている方が、気が落ち着いたのだろうと小熊さんにいわれているのは、鶴見さんの完全な空想の産物です。
 丸山先生が、私の助手論文のことを気にしたというのは、おそらく当時の助手制度の問題と関係があると思います。東大法学部助手というのは、三年間、国家公務員として給料を払い、三年目の終わりに助手論文を提出すると博士と同等に扱うという、まったく東大の特権と権威の上に乗った文部省をも無視した制度でした。それだけに、三年後に論文を書かずに、いわば食い逃げする助手が出ることに、法学部は警戒していました。丸山先生は、政治学の長老として、そういう法学部の制度の守護者としての役割を自ら引き受けていたように思います。岡義武教授の末弟子である佐藤誠三郎を東大に戻せという公式の使者として立教に現れたのも丸山先生でした。佐藤君は、岡教授の要求によって、最初の一年ゼミだけをもち、二年目から講義を持つという、今の私学では考えられない特権的な待遇を受けて、二年目、ようやく講義を始めようというとき、東大に口が空いたから戻してほしいというその使者として、丸山先生が立教に現れたのです。私は思わず、それは先生の日頃いわれていることと違うのではないですかといいましたが、先生は、日本の学問の中心として東大を支えてゆくことがいかに大事かと、同じ口上を繰り返されるだけでした。後に東大闘争で山本義隆氏に批判される原型が、そこにありました。南原先生は、弟子は師を批判し乗り越える義務があると、弟子たちを叱咤激励されたと伝えられていますが、丸山学派が丸山先生の周りに小さく固まってしまう傾向があるのは、丸山先生に、東大こそが学問の型を伝える場だという過剰な思い込みがあったことと無関係だとは、思いません。
 「職業としての政治学者」という私の小文は、読みようによっては丸山真男批判ですが、丸山先生が私のこの文章を気にしていたのかどうか、1983年のサンフランシスコでの大江健三郎氏やナジタ・テツオ氏たちといっしょの会議のとき、「私は高畠君に嫌われているようだが」と突然いわれ、私の方で面食らいましたが、丸山先生が気にしていたのは、佐藤君の交渉のために東大代表として現れた先生をただ見つめ続けた私の眼差しだったのかも知れません。
 それは、丸山先生が私を<秀才>といわれたということとも関係しています。秀才という表現が、日常の社会では、半ば侮蔑的な含意をともなっていることは常識ですし、あの対談でも、読者はそう感じ取っていることと思います。しかし東大においては丸山先生をふくめて、日常、使われていた言葉だったように思います。日本の学問の中心である東大で教えるためには、世界の政治学の状況をしり、それをふまえながら、自分の理論を展開できなくてはならないというのは、蕃書取調所の昔以来、東大に染み付いた体質で、それができる<秀才>であることは、東大教授の必要条件というのが、いまでも東大政治学に流れている空気なのではないでしょうか。もっとも丸山先生が、私を将来の東大教授候補の一員として考えておられたかどうかは、まったく別な話だとおもいます。
 丸山先生が亡くなられた後、いろんな論評がでましたが、そのなかで私の心をいちばん揺さぶったのは、毎日新聞の元文化部長の田中良太氏が私的にコンピュータを通じて売っていた通信による論評でした。そこで彼は、丸山ゼミから高級官僚がたくさん輩出し、その中には次官級の汚職として新聞をにぎわしたような人たちも一、二に止まらないと指摘し、こういう高級官僚志望者たちに対して、丸山さんはどういう教育をしていたのかと疑問を投げかけていました。丸山先生が、学問方法論としてのウエーバーに固執されたのは、もちろん戦時中の皇道主義イデオロギーが支配した政治学への批判があったのは確かですが、他方では、価値判断に入らないということで、ゼミ学生の生き方に対する倫理的な責任を自分で解除するという側面があったことに、私はいまさらのように気づかされたのです。「太った豚よりもやせたソクラテスたれ」と東大総長として訓示を垂れた(新聞原稿だけで実際にはいわなかった?)のが大河内一男だったというのは、何とも皮肉な話ですけど。
ここで最後に、鶴見さんがお父上との関係で、東大についてかなりゆがんだ総括の仕方をされていることを、わが母校のために一言申しあげておかなくては、なりません。
 東大で卒業成績を気にするのは、国家公務員の一種(昔の高等文官試験)を受験するものだけで、それは法学部の公法科の学生(学生の約3分の1)でしかありません。司法試験や実業界をめざす私法学科の学生や、学者やジャーナリストをめざす政治学科の学生にとっては、大学での成績などいうものは、就職後の人生とまったく関わりのないものでした。しかも東大では、南原改革によって、助手、そして助教授に採用するに際しても、Aが専門科目の3分の2以上(おおよそ上位一割以内)というゆるやかなもので、論文重視の採用政策をとっていました。この点で昔の東大とまったくかわらないのが、京大の法学部で、学部の平均点が0.1点違うかどうかで、教授になれるかどうかがきまるといわれています。
 さて、私は高校を出るまでは確かにトップの道を走り続けました。その理由は、当時のクラス写真を見れば、誰もが推測がつきます。お坊ちゃん集団の中に、つぎはぎの服を着て軍靴をはいてる浮浪児まがいの少年が私なのです。日比谷でトップの学生が、ニ間に七人で住み、受験期なのにアルバイトをしながら参考書を買わなければならないなど、今の子どもたちには想像もつかない暮らしでしょう。夕食までは図書館や山手線のなかで本を読んで過ごすというのが日常でした。戦前の左翼弁護士だった父に、戦後もまともな仕事の口はなく、疎開して信州の温泉の裏の蚕小屋に置き去りされた一家への仕送りも滞りがちでした。私が家の経済を支えるためにアルバイトを始めるのは中学二年のときからですが、行商や闇屋の手先として農家からのひまわりの種の買い集め、そして農繁期にはもちろん近所の農家の賃仕事など、なんでもやりました。こういう状況でしたから、父から、いちばん学費の安い東大を一度だけ受験させてやる、失敗したらそのまま就職してほしいと宣言されても、脅しでも何でもない現実だったのです。
 私が<一番>だったのは、このときまでの話です。東大に入ってからは、学生運動に明け暮れ、その後は思想の科学にのめりこみ、また学費を稼ぐために大学の四年間、週三日間、家庭教師をし、一日は日仏会館でフランス語にみがきをかけてフランスにゆくことに夢を燃やしていた。(一度、鶴見さんが下訳した桑原武夫訳「社会契約論」の誤訳を指摘して鶴見さんを慌てさせたことがありました。それほどその頃はフランス語ができたのです。その頃、私は、加藤子明の紹介で知り合った我妻洋氏の助手となって、日本で最初の現代心理学講座の編集を手伝い、埋め草的に、手相、人相、筆跡などの心理学を書き、最後に筆者が落ちてしまったため、サルトルのクセジュの本をネタ本にして「感情論」まで書き、おかげで助手に就職したら収入が半減するほどぼろ儲けしました。そのときの河出での私の担当が山口瞳氏で、彼は最後まで私を高畠先生のお使いさんと思い込み、そうでないと分かったときの絶句の顔を思い出します。)そういう私の大学時代の成績がいいわけがありません。
 とにかく四年になって東大助手を受験すると決めてから星勘定すると、これから受験する科目のすべてにAをとれば、なんとか最低ラインを突破できるとわかりましたが、そのなかには、3%しかAをつけないという堀先生のような難物もいます。私が、法学部でのAとり競争にエネルギーを傾けたのは、その一年だけで、それでようやく助手合格の最低ラインを突破できたのです。
 さて、こうやって書いてみると、この半世紀、鶴見さんとお付き合いいただきながら鶴見さんとほとんどお話したことがなかったのが、私がいかに貧窮のなかで青春時代を送ったかということでした。その点、鶴見さんは、はじめから私にとって別世界の人でした。そうだったから、私は鶴見さんに引き付けられたのでしょう。しかし、鶴見さんがこの問題にふみこもうとしてこなかったことが、今にして思えば、思想の科学の民衆へのアプローチに一定の狭さをもたらしていたようにも思います。
 私の父は、貧困のために中学にも行けず、銀行の給仕をしながらようやくの思いで金沢の四高に入学、そこで親友となった中野重治、石堂清倫氏といっしょに東大の新人会をめざして東大にはいりました。そこから戦前は左翼労農弁護士団の一員として、新潟の小作争議を支援しますが、戦争中の末期、新潟の闘争で親友となった稲村隆一氏(戦後は社会党代議士)といっしょに東条内閣に反対するため、中野正剛の東方会に近づいたりしています。新人会が吉野作造のリベラリズムをロシア革命の流行によって弊履のように捨て去ったというよりも、頻発する小作争議や労働争議に対して、吉野作造的なリベラリズムは何の対応もできなかったという事情が、そこにはあったのでないでしょうか。
 私の貧困は、この父と戦争が生んだ焼け跡闇市世代の真っ只中にいたことと重なって生まれたものです。父の貧困は、1955年前後から会社の顧問弁護士などを兼ねるようになって終わりましたが、私は父との確執もあって学生時代からの経済的自活を続けました。しかし、ふりかえって見れば、焼け跡闇市世代は、せいぜいほんの四、五年の厚みしかない世代です。結局、それは歴史のエピソードに終わってしまう物語なのかもしれません。
ずいぶん長く書きました。途中で、これをあしがくぼ通信として使おうという気持ちが生まれて、半分は、私のOB/OGたちのために書いた部分があるようです。半世紀にわたってお付き合いいただき、私の人生を豊かにしていただきました。ありがとうございました。
  五月一九日
                             高畠通敏
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